奈良の墨づくり

墨づくり日本に伝わる

  我国は飛鳥時代には中国(隋・唐)や朝鮮半島の国々(百済・句麗・新羅)と盛んに交流し、それらの国々の政治や文化を次々と取り入れて行きました。
 日本書記巻二十二、推古天皇の条に、「十八年春三月、麗(こま)の王、僧曇徴(どんちょう)と法定(ほうじょう)とを貢上(たてまつ)りき。曇徴、五経を知り、またよく彩色及び紙墨を作り・・・」とあります。
 これが、我国に墨がもたらされたことを告げる最初の文献です。推古天皇十八年は西暦610年に当たります。
 大化改新で制定された「大宝律令」には、中央官庁八省のうちに中務省があり、製墨を司どる省として造墨手が置かれました。
 奈良時代に入ると仏教が大いに興り、写経生たちは膨大な量の写経を行ない、中でも墨は貴重品扱いされていました。
 正倉院には、現在する最古の墨(墨14丁、白墨2丁)が保存されています。「華烟飛龍鳳皇極貞家墨」「新羅揚家上墨」「新羅武家上墨」が特に有名です。平城京では、図書寮(ずしょりょう)で造墨手4人で400丁余りの墨がつくられていました。
 平安時代に入りますと、仮名文字が発明され、文字が一般化されて墨の需要が一段と高まりました。この時代に制定された「延喜式」によりますと、墨は奈良だけでなく、丹波国、播磨国、大宰府でもつくられたことが記され、また平安後期には、紀州藤白(代)墨、播磨淡路墨が有名ですが、墨の原料の「すす=煤」を松の木やヤニを燃して採取することから、松の豊富な山をもつこれらの地域で「すす」を採り、墨をつくったのでした。

 

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